大判例

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東京地方裁判所 昭和39年(合わ)430号 判決

主文

被告人を懲役一年に処する。

末決勾留日数中三〇〇日を右刑に算入する。

但し、この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は昭和二四年郷里の高等学校を卒業し、その後上京して早稲田大学へ進学していたが、高校在学中の頃から先天性梅毒に基づく視力障害が顕著となつていたのに加えて、この頃から難聴となり、止むなく退学のうえ一旦帰郷して家業の精麦業を手伝う傍らあちこちの病院へ通院したり又は入院して治療に専念しいたが、治癒見込みなしとの診断を受けたこともあるなど一向にはかばかしい効果があがらないところから、時には、兄弟の中に先天性梅毒に基づく同様の病状を呈したものが少なくないことや、中にはその悪化により死亡するに至つているものもあることなどかれこれ思い案じ、自分も亦、やがては同様の運命をたどるのではないかとの不安に駆られ、何としても早期治療を求めようと焦慮し、同三七年初めには、自活してでも治療を受ける決意を固めて単身上京し、当初は都内の製本会社に勤めていたが、その後他人の不注意により紙切断機で右拇指を第一関節から切断する等の災難に遭つて同三八年二月頃退職してからは失業保険金と郷里からの仕送り等を生計の資として自活しながら、まず東大病院で診察を受けたのをはじめ、雑誌の広告等を見てもすがるような気持にまで追い込まれ、あちこち治療を求めて歩くなど手を尽してみたが、その後自活も苦しく金銭的に余裕がなくなるにつれて通院の機会が次第に少なくなりながらもなお初一念を断ち切れず、あてのない自活生活を続けていたものであるところ

第一、同三八年一二月五日午後七時頃、東京都新宿区新宿三丁目二三番地、株式会社栗橋ブラザース二階衣料品等売場において、同会社所有のセーター一着(時価約一四〇〇円相当)を窃取し、

第二、右同日同時刻頃、同区同町三丁目二〇番地附近路上において、右栗橋ブラザーズ店員広末和美(当三〇年)に後方から身体等をつかまえられた際、突嗟に同女の身体を手でふりはらう等の暴行を加えて同女を路上に顛倒させ、よつて同女に対し全治五日間を要する仙骨、尾骨部打撲の傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)≪省略≫

(法律の適用)

法律に照らすと、被告人の判示所為中第一の所為は刑法第二三五条に、第二の所為は同法第二〇四条、罰金等臨時措置法第二条、第三条に各該当するところ、判示第二の罪については所定刑中懲役刑を選択し、以上は刑法第四五条前段の併合罪であるから同法第四七条本文、第一〇条により、情状のより重い判示第二の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で処断すべきところ、情状について考えるのに、被告人の犯行は法律上強盗傷人罪と境を接し、その刑責はもとより軽視することを得ないこというまでもないところであるが、判示の如き経緯から本件犯行に出たものであるうえ判示第一の被害品は直ちに返還されて実害として見るべきものはなく、又判示第二による被害者広末の負傷の程度も幸い軽微であつたうえ、被告人の兄弟の奔走により同女との間にすでに円満に示談も成立していて同女もこれを宥恕する気持になつており、被告人にこれまで、前科・前歴等の汚点とみらるべきものは全く存せず、又本件を惹起するに至つた原因の一が経済的に無理な自活生活を強行した点にあつたと言いえても、自らは関知しない間に、親から受けついでいた難病の早期治療を求めずにはいられないまでに思いつめていた被告人の境遇・心情には深く、同情を禁じ得ないものがあり、又被告人には前叙の如き身体的所見も存し、ためにかかる短絡的行為に及んだものであり、すでに勾留も一一ケ月の長期に及びその間その短慮軽卒を深く反省して刑の目的もすでに大半は達せられていることも窺われるとこである。尤も判示第一の窃盗の動機として被告人が、世間は自分を相手にしてくれないので窃盗でもして見つかれば警察で相談にのつてくれると思つたと述べるところは直ちにこれを首肯し難いが、さりとて空腹をかかえていた被告人が栗橋ブラザーズ階下の食料品売場から食品を盗むことなく、階上の衣料品売場へ行つて衣類を盗んでいる点もそのまま納得できず、結局右の動機は証拠上遽かに断定できないものという外はない。その他、実兄大仏藤助の証言等により認められる被告人の家庭環境やその性格等を被此考慮するときは被告人には、右藤助等の計で更生する機会を与えることが極めて適切であると考えられる状況にある等の諸事情をも勘案するときは、前記刑期の範囲内で被告人を懲役一年に処するを相当とし、尚刑法第二一条を適用して末決勾留日数中三〇〇日を右刑に算入したうえ、同法第一五条第一項により本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用について刑事訴訟法第一八一条第一項本文に従い被告人の負担とする。

(第一次訴因である強盗傷人罪を認めなかつた理由)

第一次訴因である強盗傷人にかかる公訴事実の要旨は次のとおりである。すなわち、被告人は判示第一記載のとおりセーター一着を窃取して店外へ出ようとした際、店員広末和美に発見され、判示第二記載の場所まで追跡されたため、同所において逮捕を免れるため同女を投げ飛ばして路上に顛倒させ、よつて同女に判示のとおりの傷害を負わせたものである。従つて被告人の右所為は刑法第二四〇条前段、第二三八条に該当するというのである。

被告人が、判示日時場所において、判示の如くセーター一着を窃取した事実についは、争いなく、ただ傷害の点については被告人は、被告人の後を追つてきた店員広末和美を投げる意思は元より、投げ飛ばした事実もなく、単に同女より肩などを強くつかまれたので身体を強く振り動かしてその手を振り動かしてその手を振り切ろうとしたが、身体の平衡を失い共に倒れた旨供述するのであるが、その供述の仔細な点において、例えばセーターを返した際、七、八十名の人が信号の傍にいた旨、あるいは百五十人位の人が横断しておつた旨、あるいは、グレイの洋服の男が押さえつけ、次に白ワイシヤツ黒リボンを結んだ黒ズボンの男が押さえつけた旨等、甚だしく偏向固執的な点が見られるのであつて、これを証人広人広末和美、同菅又啓策の各供述並びに当時の状況と対比するときは、たやすく採用できず、ともかく外形上被害者は被告人の暴行により顛倒させられて判示の如き傷害を受けたものと認めざるをえない。もつとも右両証人の証言はこれを仔細に検討してみるとすべて被告人の供述よりも、より信用し得るものとばかりも言い難い。これを例えば広末が被告人に追いついた際の状況と被告人の暴行との関連について見るのに、被告人は終始自分は背後からつかまえられたのでこれを振りはらおうとしたのであると供述しているのに対して、広末証人被同女が被告人の背後からその身体に手をかけようとしてまだ手をふれもしないうちに、被告人は自ら背後にいる同女の方へ向き返えり投げとばした、と証言して、同女が被告人をつかんでいたのか否かについては、まさに逆の供述をして対立しており、何故被告人は、つかまれもしないのに突嗟に振り返つたのだろうかとの点について同女は、被告人はその直前にも一度ふり返つていたので追われていることを知つている筈であり、又折から人通りが多くて逃げられないと考えて仕方なくふりむいたのではないかと思うとその理由を推測的に述べている。しかし被告人の身体的状況より考えて、右の証言自体直ちに納得し難い面の存するうえ、前記菅又証人は広末が先す被告人の腰のあたりに背後からしがみついたように見え、そこで被告人が手をうしろにまわして投げたようだつたとの趣旨の証言をしているのであつて、これによれば同証人の証言は、先ず同女が被告人に手をかけてこれを被告人がはねのけたことを認めている趣意とみられ、従つて被告人が先ず同女の方へ向き直つて投げたという状況ではないこととなり菅又の証言は全体としてはむしろ被告人の供述に近い状況を証言しているものとすら解されないではないからである。更に又広末証人の証言中には暖味な部分も相当認められる反面、前記の点についてはやゝ明確すぎる位事を断定しすぎているきらいが窺われるのであるが、これは同女が人通りの多いところで転倒させられたことについて、被告人に意識的に投げられたとすることによつて、その理由をやゝ性急に強調して証言している為ではないかとの疑いも払拭し切れない。

又菅又証人は、右の状況をよく目撃していたのはないかと一応は考えられるものの、事は一瞬の間の出来事であるうえ、同人の証言するところも被告人が投げたように感じたとの、いわば瞬間的に映じた同人の全体的な印象を記憶している域を出ていないのであつて、この証人の証言のみによつて被告人の具体的行為を確定し得るほど明確であるとは未だいい難く、結局右両証言を以てするも被告人が同女の腕をとつて投げ飛ばしたとか、その他これに類似したような、いわばそれが強盗傷人罪成否の決め手ともなるような重大な事実まで、右の程度の証言だけで確定することはできないのである、のみならず、又被告人の本件弁解の中にはむげに排斥できないと考えられるものも存する。被告人は盗品を広末に返還した際周囲の人から注視されているようで気恥かしくてたまらず。折から青信号になつたのを機に道路向う側へ横断したが、右盗品を返還すると共に謝罪していたので(尤も証人広末は謝罪の事実はなかつたと述べている)相手方が許してくれたものと感じ、逮捕されるのをのがれるため逃走するというまでの気はなかつたとのべている。ところで被告人が広末に盗品を返還した当時被告人は判示のとおり先天性梅毒に基因する全聾、視力低下(角膜混濁、右側〇・一、左側〇・〇二)等のため全く意思の隔絶した身体的状態にあつたことが認められ、更に眼、耳の障害を持つていることについて自ら常々ひけ目に似た強い感情をもち気恥かしい思いに占められたいたことは鑑定人秋元波留夫作成の鑑定書記載の随所にあらわれ、又当公判廷における被告人の態度からもその一端を窺知できるところであつて、同人が周囲の人の注視を強く感じて横断歩道へ出たとのべ、以て逮捕を免れるため逃走しようとしたことを否定するところも、同被告人の立場になつて考えてみれば、あながち理解困難なところではなく、従つて又、被告人が背後から身体をつかまれたのに対しても、平常でも迷路機能障害による失調症状のため閉眼のままでは数秒間も直立及び歩行が困難ないし不可能な状態であるなど、平衡能力に障害が存する身体の状況に加えて情緒不安定性が昂進していること等鑑定書記載の諸状況も手伝つて気も動転した結果判示の行為に出たとも考えられるのであつて要するところ証人菅又啓策や被害者等の供述する如き被告人の一見外形上系統的連鎖的にみえる行動も、精神の安定を欠き、冷静を失つて気も動転した被告人自身にとつては、本来の意思の発現行為と見ること難く、尚十分に被告人の理解の域にまで到達しない、いわば被害者との間に疎通を欠き、意識の隔絶した状態での単なる衝動行為であつたものと認めざるをえない。

換言すれば、被害者の「捕えて捕えて」の連呼は元より耳に入らず、窃取にかゝるセーターを返還したことにより一切終了したものと思惟し、雑踏する中を歩み去つたところ、突然被害者に肩をつかまれ、突嗟の間にいわゆる意思の断絶した短絡的行為に出でたもの、といわなければならず右傷害行為は外形的に窃盗の機会においてなされている如くであるが、逮捕を免れる目的でなされたものと認めることはできない。よつて、当裁判所は、本位的訴因たる強盗傷人についは、その証明十分でないものと認め、判示の如く予備的訴因を採用する。

よつて主文のとおり判示する。(裁判長裁判官渡辺五三九 裁判官櫛淵理 裁判官秋山視雄)

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